伝さんの独り回想(1)

Posted by dembo on 2014年4月3日 in Play Croquet |

伝さんの独り回想(1)

これからは、神様から授かっている命を無意味に過ごすのは憚ります。
今がちょうど良い頃と思い、口が動き、頭が働くうちにちょっとばかり自分の回想を記しました。

 •出生から学業修了まで:

昭和10年12月17日生  東京都世田谷区世田谷一丁目にて出生
(1935)        6歳まで過ごす(兄弟は長女、長男、次男、三男、
              四男ー私で打止め)

昭和16年  月  日   親の仕事で青森県青森市へ移住

昭和16年 4月  日   青森市橋本国民学校へ入学 (1941年)

• 昭和16年12月8日  大東亜戦争が勃発
昭和20年  月  日   4年生時 市内長島国民学校へ転校

昭和20年7月28日 青森大空襲で被災し家屋が全焼した   
                
『青森大空襲時は、父母と次兄と私が青森市に住んでいました。長兄は大湊日通に勤務していました。三兄は学童疎開でほぼ岩手県境に近い諏訪ノ平村へ疎開していました。
当時は、空襲の時には隣組で決めた地下防空壕に入る事と決めてありましたが、父親の判断で郊外避難所になっていた学校へ逃げる事にしました。
父親は自宅の火災状況を見てから、逃げると言ったので母親と次兄と私が手をつなぎながら逃げていました。どんな拍子でか次兄の手がはなれて不明になってしまいました。避難所に着いてから母親が次兄を探しましたがおりません、母は兄が亡くなったと思い泣き叫び一夜を過ごしました。
翌日ひる頃、次兄がヒョッコリ避難所に帰ってきました。母親の喜びようは、言うまでもありません。次兄の話しを聞くには、街からしばらく逃げた住宅で焼夷弾の火災で火消しをしている所に遭遇して火消し手伝いをしてたら、近所の人達のオニギリの炊き出しをもらい、腹いっぱいになり近所の神社境内で眠ってしまったらしく翌朝テクテクと避難所まで歩いて来たと言う事でした。』

家族四人は、全員生存しました。(戦争体験者でなく空襲体験者です)

•NHK戦争証言アーカイブスより抜粋

【禁じられた避難 ~青森市~】
      
昭和20年7月28日、青森市は激しい空襲に見舞われ、市街地のほとんどが焼け、多くの犠牲者を出した。

戦前の青森市は、人口およそ10万、青函連絡船で北海道から運ばれてくる魚や農産物であふれ、北の玄関口として栄えていました。
太平洋戦争が始まると、貨物船の多くが東南アジアからの物資輸送に振り向けられたため、青函航路が産炭地である北海道からの石炭輸送を担うようになり、青森市は、各地の軍需工場に石炭を送り出す輸送拠点となった。
昭和19年になると、B29による日本本土空襲が始まり、翌20年5月、青森県は、主要道の道沿いにあった家屋3000戸を強制疎開で取り壊し、道路を拡張、消火帯を作り、バケツリレーによる消火訓練を行うよう市民に呼びかけた。
しかし、青森市民には、空襲に対する危機感はなく、空襲の被害を受けた大都市からの疎開者も青森市にやってきていた。

そうした中、7月14日、米空母艦載機100機が陸奥湾に姿を現し、青函連絡船12隻全てが撃沈された。市内各所も機銃掃射などを受け、400人以上の命が失われた。石炭輸送の妨害が目的だった。
この空襲で、青森市民の多くが避難を始めた。これに対して、県や市は空襲の際、街を守るべき市民がいなくなることへ危機感を抱き、新聞を通して一家で避難している市民に、「7月28日までに、自宅に帰らなければ、物資の配給停止する」と呼びかけたのだ。
その7月28日夜、62機のB29が青森市上空に姿を現し、焼夷弾を投下した。
黄燐を含む新型焼夷弾は発火しやすい上に、水をかければ飛散する性質を持ち、市民の消火活動は全く無力だった。

この日の空襲で、青森市は市街地の9割を焼失、犠牲者は1018人に上った。
私の空襲体験もまったく同じで「B-29ー焼夷弾ー郊外へ逃避ー丸焼けー黒こげの死体」を連想します。
(当時町内で決めてある防空壕へ避難した人々は全員窒息死でした)
青森空襲から20日たらずで、(この間広島、長崎での原爆投下を受け)終戦を迎えたとは非常に残念な結果です。

· 昭和20年8月15日  終戦を迎える  (無条件降伏なんて!!!)

              (ほしがりません勝つまでは! だったけどなあ)

·終戦後

昭和20年  月  日   青森県三戸郡三戸町へ臨時移住し転校する
(着のみ着のままで移住)

昭和21年  月  日   上北郡古間木小学校へ五年生転校(後の三沢市で寺 
              山修司君も青森市からの転校生同じクラスでした)

昭和22年 3月  日   古間木小学校 卒業

昭和22年 4月  日   三沢市立第一中学校 入学
                 (周辺町村との新設合併校)
昭和25年 3月  日   第一中学校 卒業(新制中学2期生)

昭和25年 4月  日   青森県立野辺地高校 入学
              (ラグビー部へ、勉強せず日夜?ラグビーに没頭)
            
昭和28年 3月  日   野辺地高校 卒業  (よく卒業できたなあ)

昭和29年 4月~9月   労働省八戸職業訓練所 入所 (6ケ月間)
               (労働省英文タイプ認定証 取得)

•年表と職歴:

昭和29年 11月 20日~   10年7ケ月間 米軍三沢基地勤務
   昭和39年6月18日       (退職後 群馬県前橋市へ移住計画)

昭和39年7月20日~
   昭和56年11月1日 16年4ケ月間 前橋市関東水道(株)勤務

昭和56年11月1日~     18年間    針谷工事(株)勤務~定年
   平成11年12月21日   (倒産後の救援企業 総合建設業、設備業)

            計 44年11ケ月間
•定年後 平成12年(2000)にタイ王国に移住した。

•尾崎咢堂が言った「人生の本舞台は常に将来に在り」(何歳になっても将来の為 に行動すべきという戒め)に感銘しています。(既に遅きにありかなあ)

•タイ王国に在住して7年ほど過ごした頃から、タイ王国へ何かしら恩返しも含めて出来る事がないかと思う様になりました。

私の居住している地区は少々バンコクから郊外寄りで、タイ人御家族ばかり住んでいるコミュニテーです。(タウンハウスです)御近所の親切を一杯いただいて感謝ばかりです。タイの家庭料理を頂き、すっかりトリコになってしまいました。どんどんタイ食好きに体質が変わって行く様です。 (気候良し、食事良しで、感謝 感謝)

日本に住んでいる頃に始めたクロッケー(Croquet)「芝生の上のビリヤード」を紹介普及したいと思い始めました。
(日本では1985~1995の間プレーを楽しんでいました)
• 1) 社会人一年生の回想:

19歳(1954年 昭和29年)青森県三沢米軍基地要員に採用されました。米軍基地採用には英文タイプが必修でしたから当時労働省所管の職業訓練所に入所し英文タイプの技術を六ケ月間習得しました。

どちらを向いても軍人ばかりのオフイス勤め、ホワイトシャツにネクタイ着用でした。ひたすら原稿(上司の手書き)をタイプ打ちする毎日でした。
(英文や、単語の解釈が出来ずとも英文タイプは打てるものです)

日々の勤務から、英会話も耳から入ってきて少々口が動く様になりました。(アメリカ軍人イングリッシュでした)

初任給9,000円(市中では高卒で6,000円位)、半年後に語学手当システムに挑戦して給料の20%アップを獲得しました。(給料10,800円也)
米軍基地に従事する日本人の給料は日本国の敗戦賠償金で支払いされていると聞かされています。

この要員の給料システムは、県の出先機関(駐留軍要員労務者管理事務所)で給料と、社会保険すべてが完備されていました。月末支払日に管理事務所に行き月給を受取ります。

全国駐留軍要員労働組合(全駐労組)では、国の公務員ベースアップ時に全駐労がスト権を得て基地ゲート前でストライキらしき事をすると、公務員ベースに準じてアップするのですが、決定が数か月後になってしまい公務員ベースアップ決定時に合わせて算定されます。結構、数ケ月分の臨時収入的な感じで仲間と遊びに使うのに重宝しました。

(戦後の、この期間は生活の中でさまざまな経験(???)をかなり積みました)

26歳で結婚して、29歳で子(長女)を授かりました。妻の実家(群馬県前橋市)でお産をする段取りで出産予定の5ケ月ほど前に(前年11月)実家へ行かせて翌年3月に出産しました。臨時独身貴族を謳歌して、子との対面は延ばしに延ばして5月になって引き取りに行く始末でした。

妻の親戚筋に水道工事店を経営している人がおり、その人の誘いを受けて転職を決め、直ちに家族3人で三沢市へ戻り退職手続きと(勤続11年)、引っ越し荷ずくり等々完了させて家具を発送し、二ヶ月後に前橋市へ移住しました。

• 2) 29歳ホワイトカラーから職人見習いへの決断:

国内の一般社会では、工事従事者は職人と呼ばれていた時代で、29歳の何も解らない見習いでした。この時代は、自転車にリヤカーを取り付けて親方の道具箱と工具、その日分の配管材料を積み込み作業はスコップ、ツルハシを使用して配管用の穴堀りばかりでした。手のひら、腕、腰の痛みが取れない毎日でした。

(昭和46年 (1971) 長男 誕生する)

数年後、前橋市の業界内でほぼ全ての建設に携わる職人を網羅した前橋市職業教習所を有志(各社事業主)の理解で運用する事になり、仕事終了後に夕方から3時間ほど教習を受ける事ができました。(疲れと眠気で脱落が増えて最後は半数ほど)

これは三年間の夜間教習で一般学業、(中学レベル)各職種別の学習、実技等を受けました。工業高校の教師、大学の教授らから講義を受け、後々私には有意義な経験と知識の一歩となりました。この教習の終了から、様々な資格免許等々にも挑戦出来ました。(35年間工事で体得した事が数多くあり、これを整理してアップしようと思います)

1964年に前橋市へ移住して以来, 一貫して設備業に従事し64歳の定年で終りしました。(定年は60歳でしが、継続工事等で4年ほど延長されました。)

米軍基地勤務11年間と, 水道業従事通算35年間の勤めでした。
  (思い返せば通算46年間病気もせずに頑張れたと思っています。)

まだ、頭が働く様でしたら山あり谷ありの話を書いてみたいと思っています。
     
ひとまず休息

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